インドの大乗仏教のなかに唯識学派というものがでてきて、このなかで、アラヤ識という、
人間が知覚しえない意識を体の中にもっており、それが自分の肉体や宇宙のすべて
をつくりだしたのだ、という理論体系をつくるにいたったわけです。このアラヤというとこ
るに、我々の五官を通じてきた情報が、無意識となって記録される。この記録が、種となっ
て熟してゆく。あたかも植物のように、大きくなって、それから外界に出て、体験するとい
うようなことが書いてあっなんです。これを読んだ時、あっ、これだなと思ったんです。今
日でいう、フロイトが発見した潜在意識と、このアラヤ識がダブってくるんですね。
 
「因」と「果」とアラヤ識

人間のくり返された想念は、深層意識であるアラヤに入っていき、そこにその想念が刻因
されると、やがて未来において実際にそれを体験する。そして、人間のくり返された想念
は、たとえそれが当人の欲するものであれ、また恐れるものであれ、無差別にアラヤは受け
入れてしまい、そして受け入れでしまったが最後、アラヤはそれを未来に必す実現してしま
うのです。このアラヤ識というものをコンピュータのように考えるとわかりやすいかもしれません。
今、人間か頭で何か考える。そして、考えたものが全部アラヤにインプットされるんじゃ
ない。ここが大事なところですよ。アラヤに入るには前提条件がいるんです。感情をともな
わなきや駄目なんです。考えること、つまり思考というものに感情というものが加わって熱
をもつと「念」というものになるんです。このようにアラヤ識というコンビュータにインプットされたものを、
仏教用語では「異熟」といっています。先祖伝来の「異熟」、自分の両親から受けついだ性格というもの、
自分の体験、先生から教わったこと、何か失敗して、こういうことはやるもんじゃない……自ら悟ったこと、
すべての「異熟」がドロドロとした液状になって、我々の深層意識の奥底にあるアラヤという
コンピュータに充満しているわけです。

因果は同類にしたがう

人間が、「曰常に感情をともたって思うこと」というのは、何も望ましいことや、やりた
いことばかりとは限らない。時には、人間はくよくよと、いろいろな心配ごとや悩みごと、
「そうあって欲しくないこと」を感情をこめて考えています。いや、むしろ、この心配ごと
のほうが、普通の生活では圧倒的に多いといえましょう。すなわち、アラャに、「恐れて起
こってはほしくないもの」が入っちゃうと、アラャはそれをも未来に実現してしまうのです。

アラヤ識三縁起

アラヤに入るのは意識なのですが、それがストレートに入るわけではありません。
 こんな想像をしてみてください。あなたの心の奥底にあるアラヤの入り口に一枚のカラー・スライドが置かれ
ていて、送られてきたあなたの思いがアラヤに入ろうとする際、このスライドを通過しなければならない。思い
を、凝縮されたひと筋の光線と考えてください。ところで、このスライドに使用される色は二つあって、
一つはバラ色、他の一つをグレーとします。バラ色は希望であり、肯定を表します。一方、グレーは恐れであり、
否定を表します。つまり、このスライドの色はあなたの日常の感情を表しているのです。

さて、ここで、あなたは何かを願います。願いは希望であり、それが達せられたときに喜びをもたらすもの
ですから、この思いの光線はバラ色です。このバラ色の光線がアラヤに送り込まれようとするときに、
入り口にあるスライドがグレーであったらどうでしょう。
 光線のバラ色は、スライドのグレーと混じり合って濁ってしまい、希望の思いはそこでストップしてしまいます。
つまり、バラ色の願いは、バラ色のスライドのみを通過してアラヤに大ることができるのです。
逆もまた同じです。実に多くの人が、成功、発展を願いながもその希望を達成できないのは、
スライドがグレーだからです。つまり、日常の感情がグレーで、そのためにスライドがズレーに染まっているからなのです。
 
私は今、大生でもっとも大切な点に触れています。

この日常の感情の持ら方が、人失の幸、不幸を左右するのです。いかに願いをくり返し、
思いを力強くアラヤに送るうとも、この入ライドの色が同調しないかぎりインプットは行われず、
したがって因が、やがて来るべき日の結果、すなわら果と結びつく縁が生じないわけです。
  次に、アラヤ内に入った囚=タネは、それまでに受け入れ、蓄えられていたもろもろの
 因の集合体=異熟の中に突人し、そこでドロドロと混ぜ合わされながら、しだいに一つの
 像を結んでいきます。この像を結んた状態を「第二縁起」と呼びます。
  ここで注意していただきたいのは、因がアラヤに人って混ぜ合わされ、溶解していく過
 程で、因にともなっていた人称名詞が失われていくということです。「私、彼、あなた」と
 いう人称を大い、形容詞のみが残るという性質があるのです。「おいしい、まずい」「きれ
 い、汚い」「うれしい、悲しい」これだけが残る。
  たとえば、今、自分にライバルがいて、そのライバルが失敗すればいいと願っていると
 します。この願いが、アラヤに人ると、「あいつ」という人称が消えて、相手をねたむ感情だ
 けが残る。このとき、ライバルも人の不宰を喜ぶような人物であれば、つまりグレーな感
 情の持ち主であれば、このマイナスの願いも効きます。ところが、ライバルが寛容で陽気
 な人物だったら、ライバルのアラヤに憎いという因が入ることができず、自分の持ってい
る憎いという感情は自分にはね返ってくる。憎いというのはグレーな感情で自分のカラ
 ー・スライドはズレー一色になっており、入った因は行き場がないから自分に影響するわ
けです。

あなたの心を一本のビンとします。このビンの中には、否定という液体がいっぱいに入
っています。この否定というのは、「でさない、ダメ」などの考え、または気分です。
さて、このビンの中へ希望の小石を日夜投げ込むのです。希望の小石とは、肯定の小石であり、「できる、
入丈夫、安心」という考え方です。毎日毎時、飽きることなくこの小石を投げ入れますと、やがて小石がビ
ンの中にたまり、否定の液体はビンの口から流れ出していきます。
 初めは、小石は否定の液体の底に沈んでしまい、何の効果も見られません。しかし、やがてこれらの希望
の小石が積み重なってそれまでの液体を押し出し、明るく軽くなった心のスクリーンに、
願いのイメージを徐々に描き出します。最初はうっすらとしたクロッキーから、やがては
っきりしたデッサンに、そして彩色がほどこされ、あざやかな実物そっくりの絵が現れる
のです。そして、その絵の完成がアラヤの中においてなされれば、後はその絵が実物とな
って現実に躍り出てきて、私たちはそれを体験することになります。