天風先生の言葉
源龍会,濱田様の「中村天風 一日一話」から


「まことの我は命そのもの」
「我ありと、感ずる我は、仮の我、まことの我は、見えず、感ぜず」これは日本の禅家の歌ですが、ヨーガ
の哲学のほうは、もう少し崩れた言い方をしています。「我ありと思えるものは仮の我、まことの我は命その
もの」と、ヨーガの哲学は言っている。命そのものを働かせているものが自分なんだ。肉体が命そのものを働
かせているんじゃない。命そのものの力が肉体を生かしている。

「自分とは何者か」
人間、この世に生きるのに何が一番必要かといえば、人生に対する考え方です。これを人生観という。生き
ていれば絶えず何事かが、陰に陽に自分の人生を脅かす。そのときに人生観があやふやだと、惨憺たる人生を
歩むことになる。だから、確固とした、強固として動かざる人生観を持つことが必要なのだ。そのためには、
何をおいても、まず第一に「自分が何者か」ということがわからなければだめなんだ。

「尊く、強く、正しく、清く」
どうすれば生命の生存を確保できるかというと、心と体が打って一丸とされたものが生命である以上、心と
体の両方を、自然法則に絶対にそむかせないようにすることです。自然法則にそむかないようにするには一体
どうすればいいかというと、第一に、「心」の態度を終始一貫いかなる場合があろうとも積極的であらしめる
ことです。積極的であらしめるということは、尊く、強く、正しく、清く生きることなんであります。およそ
このことぐらい人生および生命に対して大事なことはないのであります。


「宇宙の心、人間の心」
宇宙という大生命の流れと人間の心が一つになれれば、ここに初めて生命の本体も本質も分明してきて、当
然の帰結としてこの宇宙の心が真善美以外の何ものでもなく、そして同時に人間の心の本質(本然の姿)もま
た、真善美以外の何ものでもないことがわかってくる。


「人生観をコンパスに」
たいていの人が感情や理性の虜になって、貴重な人生の毎日も落ち着きのない、不安定の状態で生きている
。熟練した船長が嵐の海上をいささかもあわてることなく、一個のコンパスを使って大きな船を操縦する。こ
れと同様に、私たちは、確立した人生観をコンパスにして、外部からおびやかされない自分の一切の内的誘導
力として、自己を統御して行ける。


「自然法則に従って生きる」
人間は自然物の一つであるからこそ、当然、自然の法則に従って生きるべきである。自然界には、その種を
問わず、自然の法則に背反しているものは絶対に存在しないのが事実である。それ故、人間は、真の健康を確
立し、無病でかつ長寿でその生涯を全うするには、何をおいても自然法則に順促して生活することがで鉄則で
ある。

「生きる力」
およそ人間としてこの世に生まれ、人間として人生に活きるために、第一に知らねばならぬことは、人間の
“いのち”に生まれながらにして与えられた、生きる力に対する法則である。まこと、自分のいのちの中に与
えられた、力の法則というものを、正しく理解して人生に活きる人は、真に、限りなき強さと、歓喜と、沈着
と、平和とを、作ろうと思わなくても出来上がってくるように出来ているのである。それを一番先にわれわれ
は知らねばならない。

「肉体は生きるための道具」
肉体を本位とした人生を生きると、命の生きる力が衰えてくる。だから、まず何をおいても、第一に肉体を
自己と思うような間違いを厳格に訂正しなきゃいけませんよ。おなかが痛いときにだね、第三者の人のおなか
が痛いのと同じような気分になってごらん。「私が痛いんじゃない。私が生きるために必要な道具のおなかが
痛い」と思えばいいんだよ。客観的に考える余裕をもたなきゃいけないのよ。肉体は自分が生きるための道具
だと思いなさい。

「官能の啓発」
官能の啓発とは、五官の感覚機能を正確に作用せしめるように訓練することである。われら人間は五官を通
じて外界に存在する事物事象をわが心に受容している。したがってこの五官の働きが不完全だと、完全に外界
の消息をわが心に受け入れられなくなる。すると心の知覚の作用というものがまた完全に働かなくなり、ひい
ては認識の内容も貧弱になる。認識力の養成にはどうしてもこの五官の感覚機関のもつ各種の作用を完全にし
なければならない。


「川下だけ掃除してもだめ」
かつてインドの聖者から、「お前は自分の体のことばかり考えて、つまり、川上のことはそっちのけで、川
下だけを掃除しようとしている。そのことを教えてやるよ」と言われたんです。つまり、心と体という、命を
形成しているものの関係は、ちょうど一筋の川の流れのごとく、切れず、離れない。そうして、常にこの川の
流れの川上は心で川下は肉体だということに気がついたならば、心というものはどんな場合があろうとも、積
極的であらしめなければならんのは当然だ、と気がつくでしょう。

「本当の人間の姿」
正しい真理の上から厳粛に言えば、人間とは、「感情の動物」ではなく、「感情を統御し得る生物」です。
これが本当の人間の姿であります。しかるに、この本当の人間の姿だと言う真理の上から、厳しくあなた方の
人生生活を考えてごらんなさい。感情を統御するどころか、しょっちゅう感情に追い回されていないだろうか


「変転極まりなきが人生」
ことなき世界に生きている時の自分をいくら明瞭に認識したからといって、人生が事なきて世界でもって一
生を終わってしまうならともかく、変転極まりなきが人生の常。何か事のあった時に慌てやしないか。思いが
けない事件に出くわした時にうろたえやしないか。冷静な考え方がメチャメチャになってしまわないか。とい
うような自分の欠点や短所を、有事の際にどんなふうだということを深く掘り下げて考えなきゃだめなんだ。
そうすると、自然と自分の本当の姿というものが自分の心に映ってくる。


「思考そのものが人生」
厳格に考定すれば、人生とは、実は思考そのものなのである、否、極言すれば人生即思考ともいえるのであ
る。これをもっと釈言すれば、思考の量と質の両者の総合現象が人生なのである。
而してこの厳粛な事実を考慮すると、かりに思考と生命との関係が、大して問題にするほど重大でないと仮
定しても、叙上の如く、思考そのものが人生である以上は、およそ思考ほど人としてこの世に活きる場合これ
以上重大なものはないと、厳格に考えるべきだといわねばならない。

「本当の幸福」
本当のの幸福とは、自分の心が感じている、平安の状態をいうのだ。いくら心身統一法も何十年やっても、
幸福は向こうから飛び込んで来るのではない。自分の心が、幸福を呼ばなければ、幸福は来やしない。
だから、現在の生活の状態、境遇、環境、職業、何もかも一切のすべてを、心の底から本当に満足し、感謝
して活きているとしたら、本当にその人は幸福なのである。


「自己統御」
本当に幸福な人生を生きるには自己統御を完全にしなきゃだめだ。自己統御を完全にするには、完全にする
土台となるべき認識力というものが、また完全であらねばならない。認識力のほうをおいてきぼりにして、知
識ばかり説いてると、学べば学ぶほど苦しくなり、極めりゃ極めるほど迷ってくる。なぜかというと、正しい
知識を分別する力がなくなっちまうからであります。回帰百万遍、理屈をべらべら言うやつが、案外人生をの
たうち回って生きてる場合が多い。


「精神的な筋骨を鍛える」
人間の能力は、どんなことにも気を打ち込んで行う、という、ちょっと見ると、とても平凡なような心構え
から実現される。従って、どんな小さなことでもおろそかにしないという心構えを実行し、真剣に気を打ち込
んで何事にも当たるという心がけを切磋琢磨し、完全に精神的筋骨を鍛え上げるようにしなければならない。


「恐怖のない人生」
人間がいろいろのことを恐怖するのは、その心の使い方が肉体本位に偏っているからである。真我を本位と
して考える時、それが何ものにも犯されない絶対的のものだから、いささかの恐怖感も感ぜぬことになる。
われわれがこの荘厳な消息を正しく信念するならば、今まで心に感じていた「恐怖」は消え去り、かわりに
勃々たる勇気が心にみなぎってくるのは必然である。西哲も「恐怖を感ぜざる人生は神の世界に生きるに等し
い」といっている。

「菩薩の気持ち」
お互いみんな世の中は助け合い。だから、かりそめにも自分の気持ちのなかに、あの人が憎いとか、あの人
が気に入らないとか思っている人がいたら、その人は悪魔ですぜ。人間の世界に憎む相手はいないはずなんで
す。すべてが自分と同じ人だと思って、生きている命に対して尊敬をはらって、たとえむこうがどう出てこよ
うと、こっちはあくまでも菩薩観音の気持ちで人生に生きなければ嘘よ。


「生活方式の過ち」
現在、中高年者ばかりでなく、若い人々の中にも病弱者が多い。その根本原因は、その生活方式の過ちを是
正しないため生命の活力が減少したからである。
現代人が、その生活方式に正しき自覚と反省とをもたないのは、人間の生命本来の実消息を正常に理解して
いないからである。それは、生命を判断する時、心や肉体を生命の本体と思い込み、それが真我の生命の相対
要具であることを没却しているがためである。

「好きなものを食べる」
自分の好きなものを食べると神経作用が消化機能を促進し、十分吸収させる。好きなものを口にすると唾液
や胃液が多量に分泌される。だから第一に考えるべきことはその人がその食物を好きかどうかということであ
る。特に、病弱の人に対して、含まれている栄養価だけを基準にし、本人の好き嫌いなどを考えずに無理に食
べさせようとすることは間違いである。ただ栄養価のみにとらわれると身体に無理をさせ、活力の減退を引き
起こす。


「言葉を選択しよう」
人間が人生に生きる場合に使う言葉を、選択しなきゃだめなんですよ。一言、一言に注意してもいいくらい
、いくら注意しても、あなた方はヒョイと気づかずに消極的なことを言ってますぜ。
とにかく、習いは性でありますから、人と口を聞くときでも、「まいった」「へこたれた」「助けてくれ」
「困っちゃった」なんてことは言わないこと。あくまでも自分の心というものを颯爽、溌溂たる状態にしてお
くためには、今言ったような消極的な否定的な言葉はだんぜん用いないこと。

「心の思考が人生を創る」
可能なかぎり、消極的な気持ちで肉体を考えないようにすることが何よりも大切である。特に病のときは病
を忘れる努力をすべきである。一言でいうならば、「人間の健康も、運命も、心一つの置きどころ」
心が積極的方向に動くのと、消極的方向に動くのとでは、天地の相違がある。ヨガ哲学ではこれを「心の志向
が人生を創る」という言葉で表現している。


「苦しみを微笑みにかえて」
悲しいことやつらいことがあった時、すぐ悲しんで、つらがってちゃいけないんだよ。そういうことがあっ
た時、すぐに心に思わしめねばならないことがあるんだ。それは何だというと、すべての消極的な出来事は、
我々の心の状態が積極的になると、もう人間に敵対する力がなくなってくるものだということなんだ。だから
、どんな場合にも心も明朗に、一切の苦しみを微笑にかえていくようにしてごらん。そうすると、悲しいこと
つらいことの方から逃げていくから。


「苦しむこと」
一体現代の多くの人は、人間というものが苦しむことによって偉大になり、同時に苦しむことによって尊い
ものを認知し、尊いものを知り得てはじめて真に尊くなり得るのであるということを、知らないようである。
しかもそれが求めることより願い続けることから作為されるということを…。


「消極的言葉の厳禁」
絶対に消極的な言葉は使わないこと。否定的な言葉は口から出さないこと。悲観的な言葉なんか、断然もう
自分の言葉の中にはないんだと考えるぐらいな厳格さをもっていなければだめなんです。

「人間に年齢はない」
いいですか、私はね、人間に年齢はないと思っています。年齢を考えるから年齢があるように思うけれども
、六十、七十歳になろうと、自分が十七、八歳時代と考えてみて、違っているのは体だけ。そしてもう一つ違
っているのは、心の中の知識だけの話で、心そのものはちっとも変わっていないはずです。
ですから、四十や五十はもちろん、七十、八十になっても情熱を燃やさなきゃ。明日死を迎えるとしても今
日から幸福になって遅くはないのであります。


「人間は万物の霊長」
ここがいち番大事なことであるが、特に忘れてならないことは、人間は、万物の中で、宇宙根本の分派分量
を最も多く頂戴しているということである。人間以外の生物が真似することのできないほど、まことに多くの
分量をいただいている。
このことが、人間が霊長といわれる所以なのである。


「何も考えずに寝る」
眠りにつくまでの間、何にも考えないで眠りに入るのがほんとうの理想なんです。それができないのであれ
ば、夜の寝際、できるだけ昼間関係した消極的なことを思い出さないようにすることであります。
人間の夜の寝際の心は「特別無条件同化暗示感受習性」という状態になっていて、ちょいとでも、考えたこ
とはパーッと潜在意識に刻印されちまうんだ。だから、昼間どんな腹の立つことや悲しいことに関係した場合
であろうとも、夜の寝際の心のなかは断然それを持ち込んじゃいけないの。


「一度二つは思えない」
心ってものは、苦しまないときは喜んでいるんだ。人間の心というのは、一度に二つのことは思えない。苦
しがっているときは、楽しがっていることが引っ込んじまう。楽しがっているときは、苦しがっていることが
引っ込んじまう。両方いっぺんには無理だろ?

「悟りについて」
悟りというのは、自分の心が真理を感じたときの状態をいうのである。したがって、真理を、自分の努力で
自分の心で感じるのも、人の悟りを耳から聞いて自分の心に受け入れるのも、受け入れ方に相違があるだけで
ある。受け取ってしまえばその結果は同じである。
真理を受け入れるときの心の態度が、悟りを開く上に密接な関係があるからこそ、安定打坐で心をきれいに
させているのである。

「完全なる人生」
完全な人生とは、これを要約すれば、生命の現実存在を明確に意識するその瞬間瞬間を、何の不満感も、い
ささかの不平感をも感ぜずして、いつもよろこびに活きられている状態の人生をいうのである。

「睡眠について」
睡眠を真に催した時に睡眠し、然らざる時には睡眠するべく無駄な努力を為さぬのが最も聡明なのである。
いろいろの方法や手段を講じて無理にも眠ろうと、あれこれと種々の努力をしてもなかなか思うように眠れ
ないものである。それは、何とかして眠ろうと焦れば焦るほど、神経が興奮するためで、その上にかかる無駄
な努力をすると、精力の二重疲労を招来する結果に陥るのである。

「清濁併せ呑む寛容さ」
たとえ自分自身の心が積極心になりえたとしても、自己の心の状態を基準にして、他人の心を推し量ること
があっては絶対にいけない。よりわかりやすく言うと、自分に対しては常に厳しくあらねばならないが、これ
を他人に押しつけてはいけないのである。すなわち他人に対しては、清濁併せ呑むという寛容さを持つことで
ある。もしもこれを失うと、他人との勝ち負けにこだわる心が瞬時に現れてきて、積極心の保持を妨害するか
らである。

「心は用具である」
心というものの実際の消息は、あくまでも人生を完全に生存生活させていくための用具であるから、絶対に
これに使われてはならない。だからこそ、何はともあれ常に、人生に対する精神態度を徹底的に積極的にして
、いかなる場合にもその精神態度が絶対的積極化という、尊厳なる状態に到達するよう心してその践行に努力
すべきである。

「独りぎめ」
1番適切な処置は、何らの、後ろめたさ=少しの気のとがめをも心が感じないものを言行とするのが、最も
優れた要訣なので、少しでも自分の言行を弁護したり理由づけることによって釈然たらんとするのは、蓋し、
それはとりもなおさず、理性の判断を直ちに本心的なもの良心的なものだと独自的に断定強調しようとする極
めて価値のない、いわゆる「独りぎめ」だというてよい。

「認識力の養成と自己統御」
認識力の養成ということと自己統御ということとは、一体どんな関係があるのだろうか。これを簡単に説明
すれば認識力を適当に涵養しないと、心の固有する知覚作用が正確さを失い、その当然の帰結として正しい自
覚とか、あるいは悟りとかまたは第六感というような、いわゆる高級意識に属する精神作用が低調になり、ひ
いては完全な自己統御ということが充分よく行えなくなるという、人生に対する重大な事実があるのである。

「生命の力」
「人生建設に絶対的に必要とする生命の力」とはどんなものかというと、次の六つに分類することができる
。1.体力、2.胆力、3.精力、4.能力、5.判断力、6.断行力 である。この六つの力のいずれか一つでも欠乏し、
または不完全であると、人生の根本理想は根底から覆されることになるのは必至であるのを見逃すことはでき
ない。

「親はありがたい」
なかには親のことを悪く言うやつがある。「親も親だけども、頭が古かったなあ」なんて。あたりまえじゃ
ないか、そりゃ。時代が先に生まれてんだもの。親が自分より後から生まれてくりゃ、自分より頭が新しいか
もしれないけどもねえ。そんな批評はすべきでないですよ。とにかく、オヤジの頭、古かったなぁ、と思える
ような頭に産んでくれた親はありがたいじゃないか。

「天風式クンバハカ法」
腹が立つこと、心配なこと、恐ろしいこと、何かにつけて感情、感覚の刺激衝動を心に感じたら、すぐ肛門
を締めちまう。そして、おなかに力を込めると同時に、肩を落としちまうんだ。この三か所がそうした状態に
されたときに初めて感情や感覚の刺激衝動が、心には感じても神経系統に影響を与えないという、いわゆる影
響を減ずる効果がある。

「生命の強度を保つ」
複雑多端なる人生において、常に多種多様の病的刺激や健康生活を破壊する障害が、文化が進むほど色々と
形を変えて増殖してくるのは必然である。ただ漫然と、我意の赴くままに生活していれば、刺激や障害に抵抗
できず、病弱になる。まして人間の生命は、発育期間を過ぎれば年と共に衰退していくのは当然である。しか
し、その衰退の速度を幾分でも緩和防止して生きてこそ聡明な人生態度だといえるのだ。「常に肉体生命の強
度を積極化すべく訓練的の方法を以って生活すること」である。

「人生設計について」
多く言うまでもなく、たとえば立派な建築物をつくろうには、まず、完全な設計が必要であります。
と同様に、わが人生をつくろうには、その人生設計の中から余計なものも、きれいに取り除かないとだめなん
です。犬小屋みたいな設計を描いて、高層な邸宅なんかできるはずがない。

「幸福は苦悩から生まれる」
人生の幸福というものを安易な世界に求めてはいけない。言い換えれば無事平穏を幸福の目標としないとい
うことである。本当の幸福は、多くの人が忌み嫌う苦悩というものの中にある。すなわち、その苦悩をたのし
みに振り替えるところにあるのである。苦悩をたのしみに振り替えるというのは、健康や運命の中に存在する
苦悩を乗り越えて突き抜ける強さを心にもたせるということである。


「働くということ」
世の多くの人々は、働くのは、学校を卒業して就職試験に合格したからとか、あるいは生きていくために、
というのが大抵の人の目的ではなかろうかと思います。しかし、お互い人間がこうして働くのは、人間の生ま
れついた役目なんです。どんな身分になろうと、健康である限り、働かなくてはならないようにできています
。これ、人間として生まれた者に与えられた大きな恩恵であり、慈悲であります。


「初一念貫徹による成功」
東洋の豊臣秀吉、西洋のナポレオンはわずかな年月のあいだに立派な兵馬の権を手にして天下に君臨してお
ります。また、フランクリンやワットやエジソンのごとき、偉大な発明や発見をあえてした人々はいずれも心
の態度が積極的でありました。ですから、どんな艱難辛苦に遭遇しても、不撓不屈、その強い心で何事にも脅
かされずに、よくこれを乗り越えて、そして初一念を貫徹したのであります。否、初一念を貫徹する強い心が
あの人たちを成功させたのであります。

「時は金よりも貴重なり」
事実を慎重に考察すると、極言すればあくびする時間も、くしゃみする時間も、とりかえせないのである以
上、瞬間といえども軽々に徒費すべきでなく、心として有意義に使って活きるべきだと厳かに自戒していただ
きたい。そしてここに、時は金よりも貴重なりという真の意義も、はっきりとわかってくると思う。

「求道とは実行である」
いくら素晴らしい教えであっても、これを実行しなければ、それは絵に描いた餅にすぎない。例えば、積極
心を身につけるにあたって、感謝の念が重要であることはよく知っているはずだが、いざとなると不平不満が
先行してなかなか実行が伴わない。その点、傑出した先達に見られる求道の精神は文字通り絶対不断であった
。積極心を本当に絶対的にしたければ、その手始めに、一切の不平不満を感謝に置き換える努力を怠らないこ
とである。


「生活の情味を味わう」
生活の情味を味わわずに活きている人は、本当の人生生活はないといえる。もっと極言すれば、人間の幸い
とか、不幸とかいうものは、結果からいえば、生活の情味を味わって生きるか否かに所因するといえる。
貴賎貧富などというものは第二義的なものである。実際いかに唸るほど金があっても、高い地位名誉があっ
ても、生活の中の情味を味わおうとしない人は、いわゆる本当の幸福を味わうことは絶対にできない。

「呼吸法」
呼吸法は単に肉体生命の生きる力に対してばかりでなく、さらに進んで高級な精神生命機能の方面にまでそ
の効果をおよぼすことを目的として創造している。すなわち、呼吸作用は酸素を吸って二酸化炭素を出すと言
うような単一的な生理現象に対してだけでなく、よりもっと重大な人間の根源的な方面にまで密接な関係があ
る。

「人生の主人公」
二度と生まれ変わることのできない人生に生きているこの刹那刹那は、自分というものがいつも、人生の主
人公でなければならない。

「家庭」
人生は笑いで過ごすことである。一家揃って…特に主人をはじめ家族の外出や帰宅の際は、一層にこにこす
ることが肝要である。多少の不満や不平はさらりと捨てて…況や無始無終の宇宙生命に比すれば、人の命は決
して長いものでない。従ってどんなに愛し合っても、また健康であっても、百年と一処に生活はできるもので
ないということに想到したら、終始一貫笑顔で睦まじく暮らすのが、最も正しい人生生活だと気がつくであろ
う。況や、怒ったり、争ったりするために、家庭を持つのではないはずであるから…。


「理想と信念」
理想には信念が必要なんですよ。信念がつかないと万難を突破してもその理想の完成成就へと猛進しようと
する力が、分裂しちまうんだ。信念が出ると理想の完成成就へと勇猛邁進させる力がその心にひとりでにもた
せられるというより、ついてくる。だから、常に理想を明瞭にその心に描いて、変えないこと。しかもその理
想はあとうかぎり気高いものであらなきゃいけない。つまり理想が人間を偉大にもくだらなくもする原動力と
なるのである

「欲を捨てることはできない」
天風哲学は、断固としてこう断言します。人間の欲望というものは絶対に捨てることはできないのでありま
す。それを捨てることのできるように説いている、釈迦もキリストもマホメットも多くの人々に、私から言わ
せましたら、偽りをいってるんだと遠慮なく言いたい。私は欲なんて捨てません。私と同様に真理の中で生き
る立派な人間を、この地上にできるだけふやしたいという欲望で一生懸命このお仕事をやってるんだもん。

「この世の中は」
この世の中は、苦しいものでも悩ましいものでもない。この世は、本質的に楽しい、うれしい、そして調和
した美しい世界なのである。

「やればできる」
やらなければだめだよ、何だって。やればできるんだから。俺は不器用だとか、俺は物覚えが悪いだとか、
それがいけないんだよ。たとえ不器用だろうと物覚えが悪かろうと、十遍って覚えなかったら百遍やってみろ
。百遍やって覚えなかったら千遍やれ、そしたら覚えるから。どんなことでも、できないことほど、できると
尊いことなんだから一生懸命やれよ。そうすると、だんだんだんだん自分の生活自体が、自分の理想や希望に
近い状態になってくる。

「人生を考えるということ」
現代人の考え方は、ただ生活の当面のことだけを考えて、それで人生を考えているように思っている。もっ
とはっきり言えば、こうやって生きている毎日、その日の生命の生活の事だけを考えるのが、何か人生の先決
問題のように考えている。食うこと、着ること、儲けること、遊ぶこと。もちろんそれも必要なことだから、
考えるべきものではあるかもしれない。しかし、だからといって、それだけを考えていれば人生のすべてが解
決すると思う考え方は、どうかと思わない?


「尊き人生の要諦とは」
金殿玉楼の中にあって暖衣飽食、なおかつ何らの感謝も感激もなく、ただあるものは不平と不満だけという
憐れな人生に比較して、まことや、人生のいっさいを感謝に振り替え、感激に置き換えて活きられるならば、
截然としてそこにあるものは、高貴な価値の尊い人生ではないでしょうか!否、こうした心がけの現実実行こ
そ、活きる刹那刹那に、なんとも形容のできない微妙な感興おのずから心の中に生じ来たり、どんなときにも
生活の情味というものが当然味わわれることになる。

「時きたらば着く」
たとえば、これからある所に行こうとする時に、まだ着かない、まだ着かないという気持ちで歩いている時
と、悠々として、時きたらば着くという気持ちで歩いている時と、同じ歩いている場合でも、その歩くことに
対する人間の気持ちの中に、天地の相違があるだろう。だから、理想はよしんばその理想とするところに到着
しなくても、たえずその理想へ意志するという気持ちを変えないことが、人生を尊く生かすことなんだ。


「心に映像を描け」
およそ人間の心の中の思念というものが、それはすごい魔力のような力をもっているものであるということ
をもっともっと真実に、確信的に忘れないようにしなきゃいけないんだよ。絶え間なく映像化される想像とい
う心の作用に良き刺激を与えて、そしてそれをピンボケにしなければ、黙っていても信念の力は強固になって
、あらゆるすべてを現実化する。つまり、潜在意識の力を活用する、特に効果のある方法は、絶え間なく心に
映像を描くことなんだ。


「期待するから失望する」
「まごころ」で行われる行為には絶対の強さというものがある。「まごころ」という「心」の中には、期待
というものがないから、、当然失望というものがないからである。失望というものは、ある期待が裏切られた
ときに発生する相対的心理現象であるがゆえに、報償を行為の対象とすると、当然「期待」というものが付随
するから、その報償が、期待通りでないと、すぐさま失望念が発生し、その行為にいわゆるムラがでてくる。
したがって当然その強さというものが、ややもすると、失われがちになるのである。


「適応作用の活用」
適応作用という特殊な作用が人間の生命に、自然から与えられている。この適応作用を合理的に積極的に活
用すれば、生命の衰退速度を緩和防止することができる。外界から来る各種の刺激に抵抗する肉体の生命力を
強くすることができる。しかし、適応作用は消極的習慣にも適応するので、温室作りの花のようにならないた
めにも、肉体生活を積極的に訓練する生活習慣におくべきである。


「人から好かれる人間になる」
閻魔様が塩をなめたような顔をして人生に生きるよりは、ちょっとやそっと人から阿呆と思われてもいいか
ら、もう少しニコニコした顔になりなさい、ねえ。人としてこの世の中に生まれて一番大切なことは、人に嫌
われる人間になるんでなく、好かれる人間になることだよ。どうだい、あなた方、苦虫をつぶして、へんてこ
な面しているやつのほうがかわいいかい?それとも、何かなし、ニコニコしてるやつのほうがかわいいか、ど
っちだ?

「自己是正に努力する」
他人のことはすぐわかるが、自分のことはなかなかそう容易にはわかりがたいものだなどというのは、それ
は凡人の言いぐさである。真に自己省察なるものが、人生向上へのもっとも高貴なことであると自覚している
者は、他人のことに干渉する批判という無用を行わずに、常に自己を自己自身厳格に批判して、ひたむきに自
己の是正に努力することを、自己の人生に対する責務の一つだと思量すべしである。


「潜勢力の現実発現」
人間に与えられた特権を、確実に我がものにするために、厳として遂行しなければならない義務と責任とが
ある。それは「潜勢力の現実発現を期成する実際的手段と手法とに対する敬虔なる不断の実践」すなわちこれ
である。一心に潜勢力発現の手段と方法を実践躬行することこそ、この真諦なのである。


「鋼鉄を鍛えるが如く」
自己陶治とは自己の人格を向上させることで、あたかも鋼鉄を鍛えるのに等しい。鋼鉄は鍛えれば鍛えるほ
どその質を良好にする。人間も自己を陶治すればするほどその人格は向上する。自己陶冶を等閑視すると人間
を向下せしめるような消極的の暗示や価値のない誘惑にわれわれの精神が感応しやすくなり、反対に自己の向
上に必要な積極的の暗示や、または正しい自覚を促す真理に感応しなくなる。その結果、人生苦のみを多分に
味わうことになるのである。


「明鏡止水の心境」
意志の力の現実発現については、昔からいろいろな手段や方法が識者によって提唱されているが、なかでも
、精神を統一して意志を集中させることがその最も合理的な近道である。というのは、精神がいったん統一さ
れると雑念妄念が完全によく排除され、その精神領域はいわゆる明鏡止水の状態になるため、自ら意志集中と
いうことが極めて自然的に行われるようになるがためである。


「沈着な心」
真に沈着な心こそが、明澄なる意識を生み出し、明澄なる意識こそがその行動を截然として遅速緩急まこと
によくこれを統御するものである。すなわち武道の極意を把握するものや、その他技神に入るような堪能精錬
の人は、皆この真理にしたがっているからである。これあるがゆえに、われらはこの真理を深く尊重し、心に
銘記して、どんなときでも平素の言動をできるだけ落ちついて行うように心がけよう。

「信念の力」
現代の人間は、良いことを聞いても、良いなぁと思って感激はしても、それが、本当に自分の心のものにな
らないのは、心の中に大事な信念というものが、知らず知らずのうちに、欠如しているからなのである。欠如
しているというより、むしろ下積みになっているといおう。ともあれ、信念の力というものは、実に諸事万事
を完全にする根本的な要素なのである。

遠藤茂さん(源龍会)投稿から

中村天風 【超貴重】肉声テープ - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=fxDt3K2BJTM&app=desktop