何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、
何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな。
命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか。
空の鳥を見るがよい。
まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。
野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
働きもせず、紡ぎもしない。
しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
イエスの言葉
お釈迦様が王子様で何不自由無く生活していた時に何で悩みがあるのだろう、なんで病があるのだろうと疑問を抱き、楽な生活を捨て苦行の生活にいり気づいたのが「色即是空、空即是色」という言葉です。
作家のひろさちやさんは空とは「こだわるな」
と言う事だと言っています。中村天風先生は
この世は「原子と電子」ただあるがままと言っています。病気や嫌な事は神の愛の鞭、生き方の羅針盤。毎日が勉強、一生修行。
きんさん、ぎんさんの様に歯が無くても元気な人もいれば1本歯が無くてもクヨクヨする人もいます。物事に捕らわれず、決めつけず、あるがままに今このときを、前を見て光を見て淡々と目の前に起こる現象を理解しながら本当のあるがまの世界に向かって歩んでいく事が大切と思います。お釈迦様、キリストその他多くの先人が人生の山を登る道案内地図を残してくれています。それらを参考に光り輝く人生の山頂に向かって自分の足で1歩1歩あゆんで行きましょう。




M・マクドナルド・ベインの著書から
神と人と宇宙とは一つである、という観念で真理が開示されるものではない。
実際には、それは人間が逃避の場として獲得した単なる心象であって、
このことが人を「実在するもの」に対して盲目にしている。
しかし、それが単ある観念に過ぎないことを識別するならば、
君らはそれを越えて進み、その真理を体験する。
真理を覆い隠しているもの、すなわち自我に気づいている程度に従って、真理を悟り得るものである。
まことの瞑想とは本来記憶に過ぎない思考、思念の全過程を暴くことである。
実在するものはただひとつ、すなわち久遠の今のみである。
未来は心の中にのみある。
自分が生き生きと生きていることは、常に現在の中にあるのであって、決して過去や未来の中にあるのではない。
今こそか、実にこの瞬間こそが、創造するのてあり、
瞬間から瞬間に至る「今」こそが常に新しいのであり、
今の中において、記億は消え去り、愛が唯一の実在となる。
おそらく、あなたはそのような瞬間を体験したことかあるであろう。
それは、あまりにも妙であったがゆえに、あなたはそれを取り戻そうとする。
しかし、過ぎ去ったその瞬間を取り戻そうとするがゆえに、
あなたは「今」であるこの瞬間を体験することは決してできない。
過ぎ去ったかの瞬間は一個の体験であり、一個の記憶である。
過去ならびに末来はあなたの心の中を除いては存在しないのである。
しかし「今」、実にこの瞬間が創造する。
創造こそがあらゆる瞬間ごとに自分自身を更新しているのである。
ゆえに、心の中を除いては過去はない。未来はない。
このことが了解された時、正・邪の記憶は失せ、いかなる分離も、国籍も、相異なる信条もなくなり、
唯一の「実在するもの」である生ける臨在を妨げる何ものもなくなる。
しかして、唯一の実在するものとは、すなわち愛であり、英知である。それはありとしあるものの父なる神である。
神は完全なるままで、今!今!実存する。
しかして、神のみが存在したまう!このことを悟得するならば、
実在には高きも低きも、善きも悪しきもないことが分かる。
これらのものが存在するのは人の心の中においてであって、それは人間の洗脳行為である。
自我の正体を知れば、そしてまた、様々の心象や信仰、さまざまの観念や分離、
そのあらゆる昨日と今日にまみれた心を知るならば、
かつまた心の造り出すあらゆる迷妄を知るならば、
もともとそれらは自我の被造物なるがゆえに、それらを決めつけもせず、裁きもせず、
とらわれることもせずに正見するならば、そしてそれらを超越するためには、
心はでっちあげることをやめなければならない。
なぜならば、心は最大の迷妄であり、同時に迷妄の原因であるからである。
心は知らない。心が知るのは「実在するもの」ではない。
それは単に「実在するもの」についての観念でしかない。
それを心は「実在するもの」と信じこんでいるたけである。
神という観念は、神そのものではない。
「神」という言葉は神そのものではない。
神は、完全なるままに久遠であり、常在であり、神のみが唯一者である。
このことは心が静まった時にのみ体験し得る。
神は決して知り得るものではないことを心が知った時、それはあがくことをやめる。
その時初めて心の中にのみ存在する未来における何かではなくて、
実に今!であるところの「実在するもの」が現前する。
あなたは、このことを自分自身で経験しなければならない。
なんぴともあなたのためにそれを体験することはできない。
その道をあなたは、教師なしに、グル(サンスクリット語。
霊学の師匠(訳注))なしに一人で行かなければならない。
「知らざるもの」の中には入って行けないのである。他に方法はない。
たいていの人々は書物によって英知を得ようとする。
彼らは『われ、知者なり』と自称する、いわゆる達人に従うことによって
生命を理解することができると考えているが、
『われ、知者なり』と自称している者は、実は何も知ってはいないのだ。
ある人々は哲学団体や宗教組織に加わり、かくして終わりなき探究が続く。
このようなやり方で理解と英知とが見出されるはずがない。
なぜなら、それは単なる模倣であり、模倣は理解ではないからだ。
ある観念を単に受け入れることは、理解することではない。

初めに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった。
私たちの体の構造を顕微鏡等で見ると、その意味有る構造に驚かされます。また病気の意味等を深く考えると、この世に起こる事、すべての存在に意味があると思われます。私達自身がその一部である宇宙そのものが意識を持った存在であると私は思います。その宇宙の思い・意識がこの世に存在する全てのものを創造し、全ての出来事を起こしていると思います。私達の肉体は無から生まれて無に帰っていきます。しかし,この世に生まれて生きて、色々な事を経験したと言う事実は消えません。この世は魂の成長の場、自分を知り宇宙の法則を知る学びの場だと思います。そして私達人類は宇宙の意識の進化に大きな役目を果たしていると思います。また病気やイヤなことは神の愛の鞭であり生き方の羅針盤だと思います。私は何物にも捕われない、宇宙の法則と調和した生き方をしたいと思っています。
顕在意識と潜在意識・・・私達がその存在を意識できる顕在意識は水面上に現れた氷山の一部の様な存在でその下にはとてつもなく大きな存在の潜在意識が存在します。潜在意識の世界では人も物も過去も未来も全てが繋がっていると言われています。ですから或る方法(例えばO-リングテストその他)で潜在意識のレベルの情報を利用し治療に役立つ情報その他を得ることが出来るものと私は信じています。
明在系と暗在系・・・思いにはPower、Energyが在ります。心の奥底の潜在意識、暗在系の世界でありありと思い描かれイメージされた事はやがて現実世界、物質世界、明在系で具現化します。否定的思いは自分のみならず周囲にも病気や不幸を引き起こします。病気から治りたいと思うことは現在は病気だと言うことを認めることに成ります。今ここに活き活きと健康に過ごす姿をありありとイメージする事が大切です。いつも肯定的思いで光で心の中を満たし今ここを活き活きと生きて行きたいものです。