M・マクドナルド・ベインの著書から
神と人と宇宙とは一つである、という観念で真理が開示されるものではない。
実際には、それは人間が逃避の場として獲得した単なる心象であって、
このことが人を「実在するもの」に対して盲目にしている。
しかし、それが単ある観念に過ぎないことを識別するならば、
君らはそれを越えて進み、その真理を体験する。
真理を覆い隠しているもの、すなわち自我に気づいている程度に従って、真理を悟り得るものである。
まことの瞑想とは本来記憶に過ぎない思考、思念の全過程を暴くことである。
実在するものはただひとつ、すなわち久遠の今のみである。
未来は心の中にのみある。
自分が生き生きと生きていることは、常に現在の中にあるのであって、決して過去や未来の中にあるのではない。
今こそか、実にこの瞬間こそが、創造するのてあり、
瞬間から瞬間に至る「今」こそが常に新しいのであり、
今の中において、記億は消え去り、愛が唯一の実在となる。
おそらく、あなたはそのような瞬間を体験したことかあるであろう。
それは、あまりにも妙であったがゆえに、あなたはそれを取り戻そうとする。
しかし、過ぎ去ったその瞬間を取り戻そうとするがゆえに、
あなたは「今」であるこの瞬間を体験することは決してできない。
過ぎ去ったかの瞬間は一個の体験であり、一個の記憶である。
過去ならびに末来はあなたの心の中を除いては存在しないのである。
しかし「今」、実にこの瞬間が創造する。
創造こそがあらゆる瞬間ごとに自分自身を更新しているのである。
ゆえに、心の中を除いては過去はない。未来はない。
このことが了解された時、正・邪の記憶は失せ、いかなる分離も、国籍も、相異なる信条もなくなり、
唯一の「実在するもの」である生ける臨在を妨げる何ものもなくなる。
しかして、唯一の実在するものとは、すなわち愛であり、英知である。それはありとしあるものの父なる神である。
神は完全なるままで、今!今!実存する。
しかして、神のみが存在したまう!このことを悟得するならば、
実在には高きも低きも、善きも悪しきもないことが分かる。
これらのものが存在するのは人の心の中においてであって、それは人間の洗脳行為である。
自我の正体を知れば、そしてまた、様々の心象や信仰、さまざまの観念や分離、
そのあらゆる昨日と今日にまみれた心を知るならば、
かつまた心の造り出すあらゆる迷妄を知るならば、
もともとそれらは自我の被造物なるがゆえに、それらを決めつけもせず、裁きもせず、
とらわれることもせずに正見するならば、そしてそれらを超越するためには、
心はでっちあげることをやめなければならない。
なぜならば、心は最大の迷妄であり、同時に迷妄の原因であるからである。
心は知らない。心が知るのは「実在するもの」ではない。
それは単に「実在するもの」についての観念でしかない。
それを心は「実在するもの」と信じこんでいるたけである。
神という観念は、神そのものではない。
「神」という言葉は神そのものではない。
神は、完全なるままに久遠であり、常在であり、神のみが唯一者である。
このことは心が静まった時にのみ体験し得る。
神は決して知り得るものではないことを心が知った時、それはあがくことをやめる。
その時初めて心の中にのみ存在する未来における何かではなくて、
実に今!であるところの「実在するもの」が現前する。
あなたは、このことを自分自身で経験しなければならない。
なんぴともあなたのためにそれを体験することはできない。
その道をあなたは、教師なしに、グル(サンスクリット語。
霊学の師匠(訳注))なしに一人で行かなければならない。
「知らざるもの」の中には入って行けないのである。他に方法はない。
たいていの人々は書物によって英知を得ようとする。
彼らは『われ、知者なり』と自称する、いわゆる達人に従うことによって
生命を理解することができると考えているが、
『われ、知者なり』と自称している者は、実は何も知ってはいないのだ。
ある人々は哲学団体や宗教組織に加わり、かくして終わりなき探究が続く。
このようなやり方で理解と英知とが見出されるはずがない。
なぜなら、それは単なる模倣であり、模倣は理解ではないからだ。
ある観念を単に受け入れることは、理解することではない。